風に消えた声

風の通る島 STORY〜夢うつつ〜
風の通る島

わたしがその島に着いたのは、ちょうど夕暮れだった。港に降り立った瞬間、潮の香りと湿った風が頬をなでていく。少し早い夏を楽しもうと選んだリゾートバイト、そしてわたしはこの南の島にやってきた。

「SUNWAIVE(サンウェイブ)」と名付けられた海辺のホテルは、白く塗られたウッドデッキと、遠くに灯台の見えるプールが印象的だった。スタッフは皆フレンドリーで、業務もさほど忙しくない。居心地はよかった。けれど、何かが引っかかる。

「去年ね、ひとり……スタッフが死んだの」
ある夜、ここで長く働く七海が小さく漏らした。
「崖から落ちたの。事故ってことになってるけど、まあ、みんなそれ以上のことは……」
それきり、七海は黙った。

スタッフの誰も、その死について深く話そうとしない。話題を出せば、場の空気がすっと冷える。名前すら、誰も口にしなかった。

どうしても気になって、わたしはオーナーの原田にたずねてみた。亡くなったのは、ミユキという女性。真面目で、真面目過ぎるが故に時に空気を読まないタイプだったようだ。島の開発計画の中で、ある不正に気づき、それを表に出そうとしていた、らしい。

原田は一瞬まなざしを伏せ、それから答えた。
「あの子が間違っていたんじゃない。間違っていたのは俺のほうだよ。だけど、どうすればよかったのか今でもわからないんだ。島を守るってことは、誰かの声を黙らせることだったのかもしれない」

理由はリゾート開発だった。ホテルを建てるために、環境保護区域にわずかに踏み込む形で森林が伐採されていた。役所には申請されず、地元の合意もあいまいなまま事は進んでいたという。

ミユキはそれを知ってしまった。でも声を上げれば、“雇用を壊す奴”として島に居場所をなくす。

誰もが黙っていた。原田もまた。ミユキはその沈黙の中で孤立して、やがて、崖から落ちた。真相は闇の中だ。事故とも事件ともわからない。

夏が終わる頃、七海がぽつりと口を開いた。
「最後にミユキさんと話したの、わたしだったと思う」

「崖に行く直前に、口論になったの。『あなたは見て見ぬふりをしてる』って言われて、腹が立った。この島も、ホテルもオーナーも好きだから、ミユキさんに事を荒立ててほしくなかった」

七海の声は震えていた。
「だからわたし、止めなかった。背中を見て、心のどこかで“いなくなればいい”って、思ってた」
七海が殺したのではない。けれど、彼女の沈黙がミユキをひとりにしたのは事実だった。

夕暮れが海の彼方に沈みきったころ、砂浜の一角でキャンプファイヤーがはじまった。パチパチと薪がはぜる音が、波音と溶け合い、夜の静けさをゆるやかに破っている。

炎を囲んで集まったのは、リゾートバイトの仲間たち。全国から集まった面々で、大学生もいれば、少し年上のフリーター、調理担当の四十代主婦、フロントの五十代男性スタッフ、年齢も境遇もばらばらだ。それでも、同じホテルで働く日々が、見えない糸のようにわたしたちをつないでいる。

「ほら、焼けてる焼けてる!」
七海が串に刺したソーセージを焦がしてしまい、隣にいた調理担当の主婦が「だから言ったでしょ、焦らないでって」と笑う。彼女たちの笑い声に、原田が「昔のキャンプってのはな、もっとワイルドだったんだぞ」と軽口を叩き、場がいっそう盛り上がる。

三十代の男性スタッフがギターを取り出し、素朴なメロディを爪弾き始める。誰かが歌い出し、それを追うように他の声も加わる。大学生の男の子が手拍子を始めると、若いスタッフたちはそれに乗って踊り始めた。

にぎやかな一時の後、静寂が訪れた。炎を見つめて黙る人、潮風に目を細める人。それぞれがそれぞれの想いを胸に、この一夜を味わっていた。

やがて、年上のスタッフが焚き火越しに言った。
「こういうの、またやりたいな」
誰も返事はしなかったが、誰もが同じ気持ちだった。あの事件が起こるまでは、よくこうして皆で焚き火を囲んでいたのだそうだ。

数日後、島を離れる前にわたしは丘の上に登った。ミユキがよく登っていたという場所。そこに、小さな木のプレートが立っていた。「ここが好きだった人へ」七海が立てたのだと聞いた。

この島では、誰も悪人ではなかった。けれど誰もが、何も言わなかった。そして、その沈黙がひとつの命を奪った。正しさを言えなかった人も、正しさに目をつぶった人も、今もここで暮らし働いている。

風が、海から丘を抜けていく。この島でも、ようやく風が通り始めたのかもしれない。わたしはもう一度、風の吹く方向を見た。風にのってミユキの声が聞こえたような気がして、わたしはそっと心の中で手を合わせた。

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