第六章 「それぞれの沈黙」
〈桜ん房日誌 8月某日 記〉
夕立のあとの桜ん房は、しっとりと湿った空気に包まれていた。
窓の向こうでは、温子さんがミニトマトの支柱を直しながら、「雨のあとは甘くなるのよ」と誰に言うでもなくつぶやいていた。

美沙子さんは、また新しい案件を抱えたのか、リビングの端で黙々とノートPCに向かっている。
麗子さんは、配達された荷物を片付けながら、空のダンボールを見つめていた。
——その、ほんの小さな隙間に、もう一通の手紙が見つかったのは、昨日のことだ。
誰が見つけたのかは明かされなかった。
食卓の上にそっと置かれていたそれは、これまでのどの手紙とも違って、まるで“返事”のようだった。
「それでも、私は手放したくなかった。
でも、持っているふりに疲れてしまった。
だから、そっとここに置きます。
誰かが拾ってくれることを、祈るような気持ちで。」
麗子さんが、少し遠くを見つめるような顔で言った。
「……そうね、もう、無理して咲いたふりをするの、やめるわ」
それが何についてなのか、私は聞かなかった。
誰かの名前を出すこともなかった。けれどそれは、確かに“手放し”の宣言だったのだろう。
美沙子さんがその夜、残していった一文だけが、日誌に挟まれていた。
「謎は謎のままでも、人は変われると思う。
それが“答え”なのかもしれないわね。」
私はその紙を、そっと日誌のポケットにしまった。
外から吹き込む風が、少しだけ涼しく感じられる。
季節の境目にある今、桜ん房はほんのわずかに、音の質が変わっていた。
夜。私は今日も、短く記す。
—— 誰かが、何かを手放した。
誰かが、それに気づいた。
それだけで、もう充分だと思える夜もある。

