第五章 「風は、気づく者のほうへ」
〈桜ん房日誌 8月某日 記〉
不思議なものだ。
人は、目に見えないものの中にこそ「気配」を感じる。
桜ん房で誰かが封筒を見つけたという話を、私は一言も漏らしていないのに、住人たちの空気が少しずつ変わってきた。
温子さんの庭仕事はいつもと変わらないけれど、その手つきがどこか丁寧だ。
麗子さんの笑い声のトーンが、ひと息おくようになった。
美沙子さんは相変わらず夜型だけれど、早朝のキッチンに使った痕跡が、時々残っている。
何かが、少しずつ揺れている。
それは、私が水面の小さな波紋に目を凝らすようにしているせいなのかもしれないが、確かに、風向きが変わったのを感じている。
そして今日、物置の奥にしまわれていた段ボールの中から、古い封筒を一枚、私自身が見つけた。

差出人も宛先もない。
けれど見覚えのある筆跡。他の封筒と同じ、けれど少しだけ柔らかい。
「種は、気づかれずに蒔かれる。
芽が出るかどうかは、その人しだい。
でも、私はきっと、信じていたんだと思う。
誰かが気づいてくれることを。」
その手紙は、あきらかに私に向けて書かれていた。
でも、名指しではない。
私でなくてもいいのだ。ただ、ここにいる誰かが、その意味を受け取ればいい。
封筒の紙は、古いが、湿気ていない。
最近になって、誰かがあえてここに置いたのだろう。
私は、その“誰か”に心当たりがある。
桜ん房の部屋は七つある。今は私を含めて五人が暮らしている。
かつてもう一人、しばらく住んでいた女性がいた。
けれど、それよりも、最初にこの家を作ったあの人——りんこさん——の気配の方が、この言葉には近い。
りんこさんは、自分の過去や思いを語らない人だった。
でも、人の「これから」を支えるような空間は、いつも静かに整えていた。
……たぶん、これは彼女が残したものだ。
誰にも言わずに、静かに蒔いた言葉の種。
受け取るかどうかは、受け取る人しだい。
私は、まだ答えを出すには早いと思った。
だから今日の日誌には、こう記しておこう。
—— 風は、押しつけない。
ただ、気づいた人のほうへ、そっと吹いていく。

