桜ん房日誌―風が運んだ便り― 4

桜ん房日誌 STORY〜夢うつつ〜

第四章 「行間に揺れる声」

〈桜ん房日誌 8月某日 記〉

昨夜、共用のキッチンから明かりが漏れていたのは、たしか午前一時すぎ。
洗面所へ降りる途中、私は足音を忍ばせながら階段を下り、ドアの隙間からそっと覗いた。

そこには、美沙子さんがいた。
大きめのマグカップを片手に、翻訳中の原稿をめくる音だけが響いていた。

生活時間がずれている彼女のことは、他の住人もよく知っていて、誰も気にしない。けれど私は、その夜の彼女の様子に、ほんの少しだけ、いつもと違う静けさを感じた。

今日の昼すぎ、彼女がコーヒーを淹れながらぽつりと話しかけてきた。
「はるかさん……これ、誰のかな」

差し出されたのは、昨日、温子さんが古い紙袋から見つけたものとよく似た、もう一枚の手紙だった。
筆跡も、文の調子も、同じ人間が書いたように見える。けれど内容は、やや抽象的で、誰かに直接語りかけているわけでもない。

「何かを終わらせるとき、人はたいてい、それが始まりだとは思っていない。
 けれど、静かにそれは芽を出す。
 黙って見ていた人へ、種が届きますように。」

私が読んでいたとき、美沙子さんはじっと私の顔を見ていた。
「行間が優しいでしょ」と彼女は言った。「たぶん、この人、言葉を選びながら何度も書き直してる」

プロの校正者らしい観察。彼女は、「自分宛てではないと思うけど……妙に気になる」と言って、机の上に手紙を置いた。

「届くように、置いた気がするのよね。誰かが」

その言葉に、私は心の中で、ひとりの影を思い浮かべた。
けれどそれを口には出さなかった。ただ、曖昧に微笑んで、冷えた麦茶をコップに注いだ。

夕方にはまた、庭に風が通り抜けた。
温子さんが植えたラベンダーがゆらりと揺れた先で、麗子さんが通販で届いた箱を開けている。
そこにあるのは、外の世界の気配。でも桜ん房には、内側の時間が流れている。

夜。私は日誌にこう記す。

—— 声は、姿を持たないからこそ、行方を探したくなるのだ。

静かに、手紙は巡っていく。
誰かの手を通して、届くべき人に向かって。

タイトルとURLをコピーしました