桜ん房日誌 ―風が運んだ便り― 1

桜ん房日誌 STORY〜夢うつつ〜

第一章 「届けられた手紙」

〈桜ん房日誌 7月某日 記〉

今日の湯河原は、午後からにわか雨の予報だった。
午前のうちに外仕事を済ませようと、私は庭先にしゃがみ込み、ミニトマトの伸びたわき芽を摘んでいた。土はまだ温かく、すぐ隣のナスの苗には、温子さんが作った竹の支柱が立てられている。

玄関のチャイムが鳴ったのは、そのときだった。
郵便だった。ふだんはポストに届く文書ばかりなのに、今日は手渡しの封筒がひとつだけ──宛名は石川陽子さん。筆跡は細く、やや古風。差出人は書かれていない。

陽子さんは、桜ん房でいちばん早起きだ。朝六時には起きて、紅茶をいれて新聞に目を通し、そのあと地域の学習塾に出かける。
「教えるのって、癖になるのよね」
そう言って笑う彼女の口調には、教師だったころの名残がある。

その陽子さんが、封筒を手にしたとき、ほんの一瞬、目を伏せた。
「知ってる字かも。ありがとう、はるかさん」
それきり彼女は自室に戻り、封筒の話は出なかった。

午後、雨は予報通りに降り始めた。風が吹き、窓辺のすだれが外れて、私は慌てて縁側の留め具を直した。
風に押された雨粒が、一瞬だけ室内に飛び込んできて、畳に濡れた跡が残る。
ふと、視界の端に、リビングのゴミ箱が見えた。上には紙くずのようなもの。

何気なくそれを取り出すと、それは──封筒の切れ端だった。
あの筆跡、あの白く焼けた封。
陽子さんは、封筒を開けたのではなく、破いて捨てたのだった。

中に何が入っていたのかは分からない。
けれど私は、何も言わず、その切れ端を日誌に挟んでおいた。
今は問いただすべきときではない──
彼女が語らないのなら、それでいい。
きっと、そういう種類の手紙だったのだと思う。

夜。雨上がりの庭から、かすかに土の匂いが戻ってくる。
縁側の桜の木は葉を茂らせ、どこか涼しげにさえ見える。

今は夏。桜の季節はとっくに過ぎたのに、この木の下には、
いつだって見えない時間が積もっているような気がする。
春に咲く花の記憶だけでなく、咲かない時間に潜む気配も、
何かを伝えようとしているように。

陽子さんの封筒の件。
差出人不明。中身も不明。
ただ、破られて捨てられた、という事実だけが湿った紙片として残る。

それを今、私は記しておく。

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