桜ん房日誌―風が運んだ便り― 終

桜ん房日誌 STORY〜夢うつつ〜

終章 「風が運んだもの」

〈桜ん房日誌 8月の終わりに 記〉

庭に植えたバジルが、今になって花をつけた。
その小さな白い花が思いがけず可憐で、私は摘み取るのをやめた。

そのそばでは、温子さんが赤くなってきたミニトマトを一つひとつ丁寧に指で弾きながら熟れ具合を確かめていた。

「今年は日照りが多かったのに、実がよくついたわね」と笑う顔は、どこか晴れやかだった。
この数週間、彼女の心にも何か変化があったことを、私は知っている。けれどやはり、それを問いただすことはしない。

麗子さんは、相変わらず明るく笑って、メルカリで売れた品物の包装に余念がない。
だが、その包みの一つに、あのときの手紙と同じ筆跡のメモが挟まれていたことは、私は気づいている。
“ありがとう。手放してくれて。”
それが、送り先に届くものかどうかは分からない。ただ、それはきっと自分自身への返事でもあるのだろう。

美沙子さんは、夜遅く台所で小さなフライパンを熱しながら、言った。

「答えって、はっきりした形で返ってくるものじゃないのね。
 でも、こうして生きてるだけで、もう十分なんじゃないかって。そんな気がしてるの」

彼女の口調はいつも通りだったが、どこか澄んでいた。

私はそれを日誌に記しながら思う。

この家に流れた小さな風の中には、きっとあの人がいた。
けれど、姿を現すこともなく、何も語らず、ただそっと“揺らし”ていった。

りんこさん。

あなたのような人を、私はずっと不思議に思っていたけれど、
今ならほんの少しだけ、その静かな手のひらの意味が分かる気がする。

“誰かのため”に何かをするのではない。
ただ、“誰かが動き出せる余白”をそっと残すこと。
それが、あなたなりの優しさだったのですね。

桜ん房の夏が終わろうとしている。
風が変わった。次は秋の気配が近づいてくる。

私は今日、バジルのそばに、ミニ球根の苗をひとつだけ植えた。
花は、来年の春に咲くらしい。
でも咲かなくても、それでもいい。

—— 春はまた来る。
  それを知っているだけで、人は今日を越えられる。

【了】

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