(語り手:管理人・城崎はるか)
庭に一本、古い桜の木がある。
春には満開の花を咲かせ、ほんの一週間ほどで風に散る。けれど、その枝も幹も、葉を揺らす音も、季節を問わずにこの家の中心にある。
私はときどき、桜のそばにしゃがみ込んで、土の匂いを確かめる。別にガーデニングが趣味なわけではない。
ただ、何かが始まるとき、この木の近くにはかすかな気配が立つ。そんな気がしているだけだ。
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ここは湯河原の山裾にある、シェアハウス「桜ん房(さくらんぼう)」。
名前は、オーナーがつけた。
可愛らしい語感だけど、本人は「桜の隣の離れ、房のような暮らし」と、少しだけ理屈っぽく説明していた。
今、そのオーナー――伊藤鈴子(いとうすずこ)さんは、クルーズ船の上で地中海の風を受けているはずだ。
年齢は誰も知らない。ただ、住人たちは皆「りんこさん」と呼ぶ。
めったに姿を見せないけれど、不思議と誰も彼女を忘れない。
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この家には、七つの個室がある。
今の住人は五人。それぞれに違った時間を持ち、違った生活を送りながら、ひとつ屋根の下にいる。空き部屋はひとつ。
もうひとつはりんこさんの部屋だ。いつも扉は閉ざされている。
中には余計なものは何ひとつない。旅に出る前にすべて処分した、と彼女は言っていた。
「物には執着がないの。でも、この家は、ちょっと別」
そう言ったとき、彼女はどこか懐かしそうに桜を見ていた。
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私はこの家の管理人だ。五十代に入り、落ち着いたふりも覚えたけれど、本音を言えば今も旅人気質が抜けない。
若い頃はあちこちのリゾートバイトで暮らしていたし、いまも副業をいくつか抱えている。
それでも、この「桜ん房」だけは、なぜか居心地がいい。
誰も縛らず、でも放っておきすぎず。そんな絶妙な距離感が、この家にはある。
登場人物紹介
湯河原の小さなシェアハウス「桜ん房」の住人たち。

石川 陽子(59歳)
元・中学校の国語教師。現在は非常勤講師と学習塾の手伝いをしている、理知的な女性。
日々の中にある違和感にも敏感で、周囲の変化にさりげなく気づく観察者でもある。
藤田 麗子(61歳)
元・CA。現在は在宅でネット販売などに取り組む、華やかで快活な女性。
人とのつながりが広く、ちょっとした情報通。何かと“外の風”を運んでくる存在。
西村 温子(58歳)
静かで穏やかな雰囲気の園芸好き。
庭や畑の手入れを楽しみながら、桜ん房の四季を最も肌で感じている一人。
時折見せる“過去”を思わせるまなざしが印象的。
結城 美沙子(60歳)
翻訳や校正の在宅ワークをこなすフリーランス。夜型生活で少し独特なリズムを持つが、
落ち着いた語り口と幅広い知識が魅力。読書と静かな時間をこよなく愛している。
城崎 はるか(52歳)
「桜ん房」の管理人。住人たちとはほどよい距離感で接しつつ、
暮らしを支える裏方として、日々の様子をこっそり日誌に記している。
穏やかで控えめ、でも実はとても気が利く存在。
伊藤 鈴子(年齢不詳)
桜ん房のオーナー。現在はクルーズ船で旅をしながら優雅な日々を送っている。
物も人も束縛せず、干渉しないスタイルながら、どこかにその人らしい“気配”が残る。
