第三章 「風鈴の音」
〈桜ん房日誌 8月某日 記〉
朝の空気がまだ湿気を含んでいて、バジルの鉢にも小さな水滴が残っていた。
温子さんは、早起きだ。7時にはもう庭に出ていて、土を手のひらで押さえたり、葉の裏を覗いたりしている。黙っている時間が長いけれど、植物とはよく会話をしているように見える。
今日も、朝の涼しさが残るうちに、新しい支柱を立てていた。ミニトマトの枝が暴れだしたのだと、ぽつりと呟いた。
「根がまっすぐ伸びてると、上のほうも素直になるのよ」
そう言って土をならすその手つきは、長年かけて身についたものだろう。農家ではなかったと聞いているが、どこかに“教える人”がいたのかもしれない。
午後、彼女が荷物の整理をしている途中、居間の棚から古い紙袋を取り出した。そこには、以前誰かが置いていったらしい種の袋や、去年のマルシェのチラシが入っていた。
温子さんは「あら、こんなもの……」と、袋の底から何かを見つけたようだった。
それは、茶封筒だった。
封はされておらず、中には一枚の紙が入っていた。
温子さんが、それを拾い上げ、黙って目を落とした。
風が窓辺のレースを揺らし、静かな空気が流れた。
私が目を逸らしかけたそのとき、彼女がぽつりと声にした。
「……覚えてるのかしら、あのときのこと」
そう呟いて、温子さんは紙をもう一度見つめた。
「“あなたが笑ってくれたのが、私の最後の勇気になりました”……
……“今も、ありがとうを思い出します”、だって」
誰に話すでもないその言葉は、まるで小さな独り言のようだった。
けれど私は、その言葉を胸の中にしまった。
誰が書いたのかも、誰に宛てたのかも書かれていない。
それでも、温子さんの目に浮かんだものは、確かに時間を巻き戻すような光だった。
彼女はその紙を静かに折りたたむと、自室へ戻り、引き出しの奥へしまった。
そして、何事もなかったように夕飯の支度を始めた。
きゅうりと生姜の浅漬けを出してくれたが、包丁の音は、どこか優しかった。
——私はそのとき、確かに見たのだと思う。
言葉の正しさではなく、その響きが、誰かを少しだけ過去から自由にするのを。
桜ん房には、不思議とそういう時間が流れる。

夜になって、風鈴が小さく鳴った。誰かが開けた廊下の窓から、風が入ってきたのだろう。
私は台所の灯りをひとつ落としながら、心のどこかに残っていたあの文の気配を、そっと日誌に残すことにした。
—— 言葉は時を越える。
それを、受けとる準備ができた人にだけ、届くのだと思う。


